かまがや取材日記 官軍兵士の墓 令和2年5月13日

更新日:2020年5月18日

市川・船橋戦争の戦死者


官軍兵士の墓には、説明が書かれた掲示板がある


 前回、鎌ケ谷出身の幕末の志士、渋谷総司の資料室を取り上げました。市内には幕末・明治維新に関する史跡がもう一つあります。戊辰戦争の市川・船橋戦争で命を落とした官軍兵士の墓で、市文化財に指定されています。同じく市指定文化財の鎌ケ谷大仏が鎮座する大仏墓地内にあります。

 

 戊辰戦争は、王政復古を経て樹立された明治新政府と、これに反発した旧江戸幕府勢力との内戦です。慶応4年(1868)1月の鳥羽・伏見の戦いに始まり、翌年5月の五稜郭の戦いまで1年半近くに渡り、主に東日本の各地で両軍が激突しました。

 

 この中の市川・船橋戦争は慶応4年の閏4月に起こりました。前月に江戸城は無血開城されたのですが、これに不満を抱く旧幕臣たちは江戸を脱出して関東各地で挙兵、千葉県内でも中山法華経寺(現市川市)や船橋大神宮(現船橋市)などで陣を構えます。これに対し、新政府軍(官軍)も中山村、行徳、八幡(現市川市)と鎌ケ谷村に展開します。鎌ケ谷村に駐留した官軍は、薩摩藩の支藩、佐土原藩(現宮崎市)の藩兵120余名でした。

 

 主戦場は市川、船橋市内となり多くの民家が焼失し罹災者も多数出たようです。鎌ケ谷でも現在の大新田付近で官軍と旧幕府軍が戦火を交え、佐土原藩士の蓑毛次右衛門、巳之助、常助の三名が戦死しました。このうち、蓑毛次右衛門と巳之助の墓は明治元年に佐土原藩によって大仏墓地内に建てられ、明治19年には千葉県が墓石を新しくしました。蓑毛次右衛門は武士で、巳之助は兵糧を運んだ農民と思われます。

 

 官軍兵士の墓は、大仏墓地内をやや奥に入ったところにあります。説明が書かれた掲示板があるので場所はすぐわかります。石の柵に囲まれ、両名の墓石が並んで建てられています。なかなか立派なお墓で、手厚く葬られたことがわかります。今でもお参りする人がいるのでしょう。花と水が供えられていました。

 

 市川・船橋戦争の戦死者の墓は、大仏墓地のほか市川、船橋市内の寺などに何か所かあります。ひっそりと佇む墓石の下で、官軍兵士と旧幕府軍兵士は永遠の眠りについています。

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