更新日:2020年10月21日
【市指定文化財】 北方前板碑(ぼっけまえいたび) | |
---|---|
個人蔵、郷土資料館寄託(中央1-8-31) 板碑は石製の供養塔(くようとう)である。市内の板碑は、埼玉県北西部で採掘された緑泥片岩(りょくでいへんがん)を用いた武蔵(むさし)型(がた)板碑(いたび)が多い。北方前板碑は元徳(げんとく)3年(1331年)を最古に35基の板碑がある。すべて阿弥陀(あみだ)如来(にょらい)を表わす梵字(ぼんじ)((キリーク))を刻んだ種子板碑(しゅじいたび)である。当時浄土教系信仰(じょうどきょうけいしんこう)が盛んであったことがわかる。 昭和53年1月指定 |
【市指定文化財】 キンモクセイ(きんもくせい) | |
---|---|
粟野(個人宅内) キンモクセイは市木として親しまれている。この木は高さ約8メートル、胸高直径(きょうこうちょっけい)約55センチメートルの木である。市内にはキンモクセイが多く、この木は市内一の大木である。毎年10月初旬ころ、オレンジ色の小さな花を多数つけて豊かな芳香を放つ。 昭和60年9月指定 |
【市指定文化財】 粟野庚申講・粟野庚申塔群(あわのこうしんこう・あわのこうしんとうぐん) | |
---|---|
粟野208 (八坂神社(やさかじんじゃ)境内) (詳しい場所はお問い合わせ下さい) 中国の道教(どうきょう)の教えを根源とする庚申信仰は、人の体内にいるとされる「三尸(さんし)の虫」が60日毎の庚申の夜、寝ている間に天に上って天帝にその人の日頃の悪事を報告し、命を縮められるというもので、庚申講(こうしんこう)はそれを防ぐため、庚申の夜は眠らずにいれば、早死にせずに長生きできるという民間信仰である。庚申塔は江戸時代には盛んに建てられたが、明治時代以降は次第に少なくなる。 粟野は、江戸時代前期から現代まで庚申講が続いている市内で唯一の地区である。現在は夜通し行う講は行われていないが、講による庚申塔の造塔が継承されている。ここに造立された庚申塔は、元禄(げんろく)12年(1699年)が最も古い。文化(ぶんか)12年(1815年)以降(1845年と1850年をのぞく)は5年ごとに現在まで規則正しく建てられている。 なお、八坂神社は、明治12年(1879年)頃に千葉県が作成した「神社(じんじゃ)明細帳(めいさいちょう)」によると、大永(たいえい)3年(1523年)の創立とされている。 |
【石造物】 粟野の石塔群(あわののせきとうぐん) | |
---|---|
粟野208 (八坂神社境内)他 (詳しい場所はお問い合わせ下さい) |
【市指定文化財】 手洗鉢(ちょうずばち)・額「絵馬」・鈴(すず)・額 「豊作社」(ほうさくしゃ) | |
---|---|
初富221-1 (豊作稲荷神社(ほうさくいなりじんじゃ)) |
【市指定文化財】 おしゃらく踊り(おしゃらくおどり) | |
---|---|
軽井沢地区 軽井沢(かるいざわ)地区に伝えられる。お化粧をし、派手(はで)な長襦袢(ながじゅばん)やきれいな着物を着て踊ることから、「おしゃれ」がなまって「おしゃらく」となったといわれている。小道具として手拭(てぬぐい)(豆絞(まめしぼ)り)や扇(おうぎ)を使う。摺(す)り鉦(かね)と締(し)め太鼓(たいこ)、三味線(しゃみせん)による伴奏で「高砂(たかさご)」「木更津(きさらづ)」などの唄に合わせて、手踊(ておど)りするものである。戦前までは小念仏踊(こねんぶつおど)りともよばれ、念仏講(ねんぶつこう)に由来する関東地方発祥(はっしょう)の代表的な農民(のうみん)芸能(げいのう)の一つで、江戸中期以降に旅芸人などを介して流行し、幕末から明治期にかけて盛行(せいこう)して、結婚式などめでたい席で演じられた。厳しい農作業に明け暮れた生活の中での娯楽(ごらく)のひとつとして、活気に満ち溢れた当時の暮らしの様子を今に伝える貴重な無形(むけい)民(みん)俗文化(ぞくぶんか)財(ざい)である。 市内では、かつて木下(きおろし)街道沿いの鎌ケ谷地区にも残っていたが、現在は軽井沢地区のみに残っており、鎌ケ谷市おしゃらく踊り保存会(昭和58年1月結成)により、保存、継承、普及活動が行われており、昭和61年12月に鎌ケ谷市の無形民俗文化財に指定されている。県内で同じ系統の踊りとして松戸の万作(まんさく)踊(おど)り(県指定)、浦安のお洒落(しゃらく)踊(おど)り(県指定)などがある。 昭和61年12月指定 |
【国史跡】 下総小金中野牧跡(野馬土手)(しもうさこがねなかのまきあと(のまどて)) | |
---|---|
東初富1-20 江戸幕府は、軍馬(ぐんば)を確保するため下総地方に小金牧・佐倉(さくら)牧(まき)を設置した。市域の台地上のほとんどは小金五牧のうちの中野牧に属した。牧では最盛期には1,000頭もの野馬が野放し飼いにされ、通常は餌(えさ)などが与えられないため、野馬が村に入り畑の作物を食い荒らすこともあった。そのため、村人は野馬が入ってこないように村と牧との境に野(の)馬(ま)除(よ)けの土手を築いた。また野馬を水呑み場(みずのみば)や捕込(とっこめ)へ効率的に誘導するための土手(勢子(せこ)土手(どて)という)が築かれた。これらを合わせて野馬土手とよぶ。なお、勢子土手は幕府の手当てにより作られたが、野馬除(のまよけ)土手(どて)の築造(ちくぞう)、補修(ほしゅう)はすべて村の負担で行われたという。かつて野馬土手は市内各所に所在していたが、開発等に伴い年々減少してきている。そこで、永く保護・保存するためにこの初富小学校校庭横に所在する野馬土手は捕込と共に国史跡に指定された。この野馬土手は勢子土手と呼ばれる種類の野馬土手である。 平成19年2月6日指定(国史跡) |
【国史跡】 下総小金中野牧跡(捕込)(しもうさこがねなかのまきあと(とっこめ)) | |
---|---|
東中沢2-1 江戸幕府が軍馬(ぐんば)需要(じゅよう)をまかなうため、直轄(ちょっかつ)して設置した小金牧の1つの中野牧の遺構である。捕込は、野馬を追い込み、捕らえて選別する施設である。捕えられた野馬のうち、三歳馬は乗用に養成されたり、周辺の住民の労働力を荷(にな)うものとして払い下げられた。それ以外の馬は再び野に放されたが、この年に生まれた当歳(とうさい)馬(ば)については他の牧の馬と区別するための焼印(やきいん)が尻に押された。焼印は牧ごとに印が決まっており、中野牧は千鳥(ちどり)の印であった。なお、野馬の売払い金は少ないながらも幕府の安定した収入となった。年に1回行われた野馬捕りでここに野馬を追い込むのは、周囲の村々から集められた勢子の仕事であった。野馬捕りの様子は勇壮だったようで、江戸からも多くの見物客が訪れる重要な年中行事であった。中野牧の捕込は小金牧の中で、唯一現存しているもので、元は三つあった区画のうちの一区画がそのまま残っている。 江戸幕府の軍事力を支えた軍馬生産を知る上で重要であることから、平成19年2月6日に国史跡に指定された。 |
【市指定文化財】 土地紀念講碑(とちきねんこうひ) | |
---|---|
北初富6-1(光圓(こうえん)寺境内) 初富開墾 (はつとみかいこん)は牧の 廃止後 (はいしご)、江戸での仕事を失った人々を 救済 (きゅうさい)するために明治2年(1869年)から始まった。しかし、当初の 入植者 (にゅうしょくしゃ)には元武士や町人など農作業に慣れていない者が多かった上に、作物の不作が重なったため、多数の 離散者 (りさんしゃ)が出たり、開墾会社と開墾人との間で土地の取り扱いについて土地 騒動 (そうどう)が起こるなど困難をきわめたものであった。その後、近隣の村々から移住してきた農家出身者も加わり、苦しい中でも徐々に開墾を成功させていった。その子孫が集まり、当時の生活を忘れないように 芋粥 (いもがゆ)をすすって 祖先 (そせん)をしのび、励まし合ったのが土地紀念講である。この碑は開墾50周年を記念して、大正7年(1918年)に光圓寺境内に建てられたものである。 昭和50年1月指定 |
【市指定文化財】 制札「慶応四年太政官布告」 (せいさつ「けいおうよねんだいじょうかんふこく」 ) | |
---|---|
個人蔵及び中央1-8-31(郷土資料館) 慶応(けいおう)4年(1868年)、明治政府は「五箇条(ごかじょう)の御誓文(ごせいもん)」を発布した。一方庶民に対して「五蒡(ごぼう)の掲示(けいじ)」を出し、江戸時代と同様に、一揆(いっき)やキリスト教を禁止した。この制札は、道野辺の妙蓮寺わきの路傍に立てられたといわれている。 写真の制札は横103センチメートル、縦(最大)51.7センチメートル、厚さ3.5センチメートルの杉板製である。 昭和52年7月指定 |
【市指定文化財】 下総牧開墾局知事(しもうさまきかいこんきょくちじ)北島秀朝等(きたじまひでともら) 旅宿看板(りょしゅくかんばん) | |
---|---|
中央1-8-31 (郷土資料館) 下総(しもうさ)牧(まき)の開墾(かいこん)事業(じぎょう)が始まる直前の明治2年(1869年)に東京府(とうきょうふ)開墾局(かいこんきょく)知事(ちじ)北島(きたじま)秀(ひで)朝(とも)ら開墾局(かいこんきょく)の役人たちが、当時粟野村(あわのむら)の名主を務めていた渋谷家に宿泊し、実際に開墾予定地を視察したことを示すものである。最初の開墾地となるこの地が豊かな土地になるようにと願いを込め、この地で「初富(はつとみ)」と命名・宣言したされる史実を具体的に裏付けるとともに、開墾開始前後の資料は皆無に近いため、極めて貴重な資料である。 看板には北島の名前とともに同行した開墾局の役人の名前などが墨書きされている。 写真左「花井静一郎旅宿」(表)・「開墾局御用宿」(裏 右端)、写真中央「北島五位旅宿」(表裏とも)、写真右「関口一郎旅宿」(表・裏記載なし) 北島の看板は杉材、他2点は桧材、大きさは3点とも概ね63センチメートル、幅14センチメートル、厚さ1センチメートルである。なお、北島は当時の位階で書かれている。 平成10年11月指定 |
【遺跡】 根郷貝塚(ねごうかいづか) | |
---|---|
中沢471他 (詳しい場所はお問い合わせ下さい) 万福寺(まんぷくじ)の北側に位置する縄文、古墳、奈良・平安、室町時代に及ぶ複合遺跡である。各時代にわたり住居跡などの遺構や遺物が発見されている。特に縄文時代の住居跡には貝塚が残され、埋葬された状態で人骨が発見されている。 |
【市指定文化財】 八幡春日神社の森(はちまんかすがじんじゃのもり) | |
---|---|
中沢907 (詳しい場所はお問い合わせ下さい) もともとスギとクロマツの人工林から始まり、約200から300年を経過しているものと思われる。胸高直径(きょうこうちょっけい)3メートル以上の巨木は、スギが2本、ムクノキが6本ある。 また、暖帯林(だんたいりん)特有のヤブツバキが亜高木(あこうぼく)として森をおおい、12月初旬ころから花が咲き始める。 平成4年8月指定 |
【市指定文化財】 三橋家墓地(みはしけぼち)(歴代墓石含む) | |
---|---|
中沢646 (詳しい場所はお問い合わせ下さい) 三橋家は、江戸時代に小金中野牧の牧士(もくし)役をつとめた家柄である。牧士は野馬の管理を行ない、野馬捕(のまど)りや将軍の鹿狩(ししが)りの際には、勢子人足(せこにんそく)たちを指揮した。また、苗字帯刀(みょうじたいとう)の他、乗馬や鉄砲の所持も許されていた。この墓地には享保(きょうほう)8年(1723年)に亡くなった五郎兵衛(ごろべえ)から、昭和の初めに貴族院議員として活躍した三橋彌(わたる)まで、10代にわたる墓石がある。 昭和52年7月指定 |
【市指定文化財】 妙蓮寺板碑及び五輪塔(みょうれんじいたびおよびごりんとう) | |
---|---|
妙蓮寺 (常時公開はしていません) 妙蓮寺は中山法華経寺(なかやまほけきょうじ)の末寺(まつじ)の古い寺である。道野辺は、日蓮(にちれん)の母妙蓮(みょうれん) の生まれたところとの伝承もある。板碑には永享(えいきょう)4年(1432年)の銘があり、「右為妙蓮逆修(注釈1)也」と刻まれている。五輪塔(ごりんとう)は石が5段に重ねられたもので、年代は不明。高さ45センチメートル。 昭和52年7月指定 [注記] 注釈1 逆修:自分の死後の幸福を願い、自ら(板碑を)造立すること。 |
【石造物】 馬頭観音(ばとうかんのん) | |
---|---|
道野辺35 他 (詳しい場所はお問い合わせ下さい) 馬は、動力機関が発達する近代以前には運輸や大きな労働力として貴重な存在であり、大切に扱われていた。そこで馬を飼育する人々の間で馬の無病(むびょう)息災(そくさい)や供養(くよう)のために馬頭観音に祈願する講ができたりして、馬頭観音を造立することが広まった。市内では粟野の八坂神社に安永(あんえい)8年(1779年)銘のものが、現在確認されている中では最も古い。明治以降は次第に特定の日付が刻まれているものが多くなり、馬の墓標(ぼひょう)として造立されるようになったようである。 道野辺字下西山の墓地には、3基現存している。これらのうち、明治43年(1910年)造立のものは、日露(にちろ)戦争(せんそう)に徴発(ちょうはつ)されて死んだ馬の供養のための馬頭観音である。 |
【市指定文化財】 根頭神社の森(ねずじんじゃのもり) | |
---|---|
道野辺49 (詳しい場所はお問い合わせ下さい) 市民の森の主要部分を占めている森で、スギ・ヒノキ・アカガシ・コブシなどの本殿林(ほんでんりん)と、それを囲むスギ・ヒノキの人工林で構成されている。また、胸高直径(きょうこうちょっけい)3.48メートルのスダジイの巨木もある。スギの樹齢は100±10年と推定される。 また、草本類の種類も多く、ウラシマソウ、チゴユリ、ミヤマナルコユリ、ヤマユリ、ヒトリシズカなど多くのものが確認されている。 平成4年8月指定 |
【市指定文化財】 魚文の句碑(ぎょぶんのくひ) | |
---|---|
東鎌ケ谷1-7 「ひとつ家(や)へ 人(ひと)を吹(ふ)き込(こ)む 枯野(かれの)かな 魚文(ぎょぶん)」(銘文)松尾芭蕉(まつおばしょう)の流れをくむ俳人(はいじん)三級亭魚文(さんきゅうていぎょぶん)が、旅の途中で鎌ケ谷宿(かまがやしゅく)を通った時に詠(よ)んだ句と思われる。「明和(めいわ)元年(1764年)、武陽産高橋氏(ぶようさんたかはしし)建立」とある。木下街道(きおろしかいどう)の道標を兼ね、「右 木をろし道」「左 中木戸道」と刻まれている。 木下街道は古くは木下(きおろし)河岸(かし)と行徳(ぎょうとく)河岸(がし)を結ぶ輸送路として、その後も江戸から鹿島方面への参詣や銚子方面へ向かう人々で賑わい、鎌ケ谷宿にも多くの文人(ぶんじん)墨客(ぼっかく)が往来していた。古くは松尾芭蕉(まつおばしょう)が弟子を伴い「かしま紀行」を残している(貞享(じょうきょう)4年(1678年))。また、渡辺崋山(わたなべかざん)は文政(ぶんせい)8年(1825年)に鎌ケ谷宿付近で「四州真景図(ししゅうしんけいず)」の「釜原(かまはら)」を描いている。鎌ケ谷市役所1階ロビーにはこの絵を模した壁画がある。 昭和47年3月指定 |
【市指定文化財】 官軍兵士の墓(かんぐんへいしのはか) | |
---|---|
鎌ケ谷1-5 (大仏墓地内) 慶応(けいおう)4年(1868年)、江戸幕府の滅亡に反発した旧幕府軍の一部と鎮圧に向かった新政府軍とが、市川・船橋周辺で激しい戦いをした。その折、鎌ケ谷大新田(おおしんでん)付近で、新政府軍側の佐土原藩(さどわらはん)(現宮崎県宮崎市佐土原町)の士分(しぶん)1名(俗名(ぞくみょう) 蓑毛次右衛門(みのもじうえもん))と兵糧方(ひょうろうかた)1名(俗名 巳之助(みのすけ)、兵糧を輸送した農民と思われる)が戦死した。ここにはその当時、佐土原藩の弔(とむら)い料により建てられた墓石と明治19年(1886年)に新政府軍側の戦死者に対して千葉県の官費(かんぴ)で建てられた墓石がある。 この新政府軍と旧幕府軍の戦争による死傷者の数はわかっていない。新政府側の兵士の墓はこのようの所々で確認できるものの、旧幕府軍の戦死者は、当時、墓石に名前を刻むことすら難しかったため、ほとんど確認できない状態である。しかし、下総地方には幕府直轄の牧場があったなど旧幕府軍に与する傾向があり、一部で脱走様(だっそうさま)と呼ばれる旧幕府軍兵士の墓と思われるものも存在する。 昭和47年3月指定 |
【市指定文化財】 鎌ケ谷大仏(かまがやだいぶつ) | |
---|---|
鎌ケ谷1-5(大仏墓地内) 安永(あんえい)5年(1776年)、鎌ケ谷宿の大国屋(だいこくや)(福田)文右衛門(ぶんうえもん)が、祖先の供養のために、江戸神田の鋳物師(いものし)に鋳造(ちゅうぞう)させたもの。高さ1.8メートルの釈迦(しゃか)如来座像(にょらいざぞう)である。開眼供養(かいがんくよう)には僧侶(そうりょ)50人あまりを請(しょう)じ、江戸の高級料理屋八百(やお)膳(ぜん)で300人前の料理を用意し、当時「つぼに白金(しろがね)、お平(ひら)にゃ黄金(こがね)、皿にゃ小判(こばん)でとどめ刺す」と唄(うた)い囃(はや)されたと豪勢な様子が伝えられ、鎌ケ谷(かまがや)宿(しゅく)の盛時(せいじ)の有り様がうかがえる文化財である。 昭和47年3月指定 |
【市指定文化財】 百庚申(ひゃくこうしん) | |
---|---|
鎌ケ谷1-6 (八幡神社境内) 八幡神社境内に、天保(てんぽう)12年(1841年)から13年までにかけて建てられた。青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)が10基あり、その間に文字塔(「庚申塔」)が9基ずつの90基と合わせて100基ある。石塔(石像)を同じ場所に多く造立して、多くの功徳(くどく)を得るため、100基という多数が建てられたものである。江戸時代後半に下総で流行した信仰形態である。 昭和63年12月指定 |
【市指定文化財】 庚申道標(こうしんどうひょう) | |
---|---|
鎌ケ谷1-6 (八幡神社境内) 元は、大仏十字路付近にあった庚申塚(こうしんづか)上に所在していたもの。中央の1基は寛政(かんせい)7年(1795年)に造立されたもので、側面には 「東 さくら(佐倉)道」 「西 こがね(小金)道」と刻まれており、道標を兼ねていた。 昭和63年12月指定 |
【市指定文化財】 駒形大明神(こまがただいみょうじん) | |
---|---|
鎌ケ谷3-3 (詳しい場所はお問い合わせ下さい) |
【市指定文化財】 清田家の墓地(きよたけのぼち) | |
---|---|
鎌ケ谷3-3 (詳しい場所はお問い合わせ下さい) 清田家は江戸幕府の命をうけ、小金(こがね)・下野牧(しものまき)の牧士(もくし)役を13代にわたって世襲した。牧士は野馬の管理を行ない、野馬捕(のまど)りや将軍の鹿狩(しかか)りの際には、勢子人足(せこにんそく)たちを指揮した。また、苗字帯刀(みょうじたいとう)の他、乗馬や鉄砲の所持も許されていた。 昭和48年10月指定 |
【市指定文化財】 道標地蔵(どうひょうじぞう) | |
---|---|
南鎌ケ谷3-6-43 行徳・鎌ケ谷・木下(きおろし)を結ぶ「木下街道(きおろしかいどう)」は江戸時代の重要な交通路であった。この道標地蔵は、木下街道から神保(じんぼ)(現船橋市)への分岐点に建てられたものと考えられるが、現在は清(せい)長庵(ちょうあん)内に所在する。前面には「いんざいみち かしま道なり」、左側面に「かまがい道 施主かねこ」、右側面には「じんぼう道 施主金子」と刻まれている。正徳(しょうとく)5年(1715年)に造立された銘があり、市内最古の道標である。 昭和60年9月指定 |
【市指定文化財】 大仏板碑(だいぶついたび) | |
---|---|
中央1-8-31(郷土資料館) |
【市指定文化財】 錦絵「貴婦人の図」(にしきえ「きふじんのず」) | |
---|---|
個人蔵 |
【市指定文化財】 版画集「子ども遊戯風俗」(はんがしゅう「こどもゆうぎふうぞく」) | |
---|---|
個人蔵 |
【市指定文化財】 庭訓往来三月之部(ていきんおうらいさんがつのぶ) | |
---|---|
個人蔵 |
【市指定文化財】 渋谷総司書簡(しぶやそうじしょかん) | |
---|---|
個人蔵 |
【市指定文化財】 初富開墾(はつとみかいこん)関連資料 | |
---|---|
中央1-8-31(郷土資料館) |
【国登録有形文化財(建造物)】 澁谷(しぶや)家住宅(主屋、米蔵、門) | |
---|---|
中佐津間一丁目地先 |
【国登録有形文化財(建造物)】丸屋(丸屋、丸屋離れ) | |
---|---|
鎌ケ谷四丁目地先 |
国登録有形文化財(建造物) | ||
---|---|---|
名称 | ||
1 | Photo(PDF:3,842KB) | |
2 | Photo(PDF:276KB) |
生涯学習部 文化・スポーツ課 文化係