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第13回 澁谷貴重が初めて参加した相楽祭

更新日:2023年11月1日

 今回から、大正時代(1912年から1926年)に撮影された市域に関係する写真を紹介してみたいと思います。
 昨年、市内中佐津間の澁谷家からご寄贈いただいた膨大な歴史資料の中に、明治から昭和戦前期に撮影された古写真があります。次に掲載した写真1はその1点で、大正8年(1919年)4月3日、長野県下諏訪(しもすわ)町で開催された相楽祭(さがらさい)の際に撮影されたものです。


写真1  澁谷貴重が初めて参加した相楽祭(大正8年「1919年」4月3日)

 慶応(けいおう)4年(1868年)、新政府東山道軍(とうざんどうぐん)先鋒(せんぽう)として中山道(なかせんどう)を進軍していた赤報隊(せきほうたい)は「偽官軍(にせかんぐん)」の汚名をきせられ、3月3日この下諏訪の地で幹部8名が処刑されました。この中の一人に、現在の市内佐津間出身で満22歳の澁谷総司(しぶやそうじ)がいました。彼らが処刑された場所を地元では「はっつけ田」と呼んでいました。そして、明治3年(1870年)、生き残っていた旧赤報隊員により、この場所に彼らを鎮魂(ちんこん)するための石碑が造立され、明治維新の先駆けとなって命を失った若者たちを意味する「魁塚(さきがけづか)」または隊長の相楽総三(さがらそうぞう)の名から相楽塚とも呼称されました。
 魁塚近隣の友之町(とものちょう)の人たちは、明治期に月送りの4月3日に彼らの霊を(なぐさ)めるための「相楽祭」を執行していましたが、いつしか途切れていました。大正初期、相楽の孫の木村亀太郎(かめたろう)(以下「亀太郎」と略記)が来訪したことをきっかけとして、大正7年(1918年)に「五十年祭」を兼ねて相楽際が復活しました。そして、翌年の相楽祭には、総司の兄の孫である澁谷貴重(きじゅう)(以下「貴重」と略記)が参列したのでした。なお、この後亀太郎と貴重は手を携えて赤報隊員の復権に尽力していくことになります。
 写真の中央に見える石碑が、明治3年に建てられた魁塚の碑です。その前には茣蓙(ござ)もしくは(むしろ)が敷かれ、正装した人たちが左右に分かれて正座しています。右側の列で石碑に一番近い位置に座っている洋装の人物が貴重です。他の紋付(もんつき)(はかま)を着装している人たちは、地元の有志です。
 実は澁谷家旧蔵写真の中には、前年の復活「相楽祭」の時に撮影された写真も伝わっていました。それが次に示した写真2です。

 写真1とほぼ同じ構図ですが、貴重の場所に学生服を着た坊主頭の少年が座っています。写真裏面の注記によると、彼は亀太郎の弟隆平(りゅうへい)です。また、その隣(写真右側の列、石碑側から2番目)は、赤報隊員で慶応4年2月18日の追分宿(おいわけじゅく)の戦い(現長野県軽井沢町)で戦死した金原忠蔵(きんばらちゅうぞう)(竹内廉之助(れんのすけ)小金宿(こがねしゅく)〔現松戸市〕出身)の長男竹内義之助(よしのすけ)と記載されています。
 魁塚は、一度長野県史跡に指定されましたが、昭和49年(1974年)に改めて下諏訪町文化財(史跡)に指定されました。JR下諏訪駅からも近い旧中山道沿いの場所に現存しています。また、相楽祭はその後も継続して行われていますが、近年では、開催日が毎年4月第1日曜日に変更されています。

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