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第2回 昭和46年当時の市内の学校(1)南部小学校

更新日:2021年11月25日

 昭和46年(1971年)9月1日に鎌ケ谷が市制を施行した時点で、市内には、小学校6校、中学校1校、高等学校1校がありました。広報から移管された写真の中には、この年の学校の校舎や行事の様子などを撮影したものが多数含まれています。今回からは、そのような写真についてご紹介してみたいと思います。

昭和46年南部小学校校舎の写真
南部小学校の校舎(昭和46年10月)

 上に掲載した、いかにも昭和の小学校のたたずまいを伝える校舎の写真は、この年10月に撮影された南部小学校のものです。

 南部小学校は、明治7年(1874年)に設置された道野辺(みちのべ)簡易科(かんいか)学校と同13年に設置された大野(おおの)小学校中沢分校(なかざわぶんこう)が、明治22年に合併して誕生した中野尋常(なかのじんじょう)小学校が前身です。当初は道野辺の妙蓮寺(みょうれんじ)が仮校舎として使用されました。明治36年(1903年)、中沢(あざ)外和戸(そとわど)に本格的な校舎が建設され移転しました(現在の中沢みんなのスポーツ広場と弓道・アーチェリー場の所在する場所です)。写真正面に見える古い校舎は、後に増・改築が加えられていますが、明治時代に建設されたものです。また、右手に見えるのは、昭和32年(1957)に建設された建物になります。旧校舎前の校庭に1本の常緑樹(じょうりょくじゅ)がありますが、これは南部小学校の木として長年親しまれ、同校の校歌にも歌われたモチノキです。『もちの木(南部小学校創立50周年記念誌)』(平成26年発行)によると、大正4年(1915年)に植栽され、昭和42年(1967年)に「懐旧の樹」と名付けられました(残念ながらこの場所に現存していません)。

 さて、中野尋常小学校は、大正11年(1922年)に当時の鎌ケ谷村内に存在した3つの尋常小学校が合併し、新たに鎌ケ谷尋常・高等小学校が設置されたことにともない、その第二分校となりました。その後、学校制度の改変により、昭和16年(1941年)には鎌ケ谷国民学校、同22年には鎌ケ谷小学校の分校として継続します。昭和30年代に入ると、鎌ケ谷村にも高度経済成長の波が押し寄せ、人口が急増していきます。そのため、同33年に町制が施行されました。これに伴い、市域の児童数も増加していきます。そして、これに対処するため、鎌ケ谷小学校の分校が再独立していきます。第一分校が東部小学校(昭和37年)、第三分校が北部小学校(同39年)、そして第二分校は昭和40年(1965年)に南部小学校として、再び独立した小学校となりました。
 この写真は、独立してから6年半が経過した段階のもですが、中野尋常小学校や第二分校の時代を思いおこさせるものといえます。実は南部小学校が大きく変わってゆくのは、この直後のことです。翌47年になると、学区内に造成された鎌ケ谷グリーン・ハイツ(道野辺地区に建設された大規模住宅団地)への入居が始まり、児童数が激増しました。昭和46年度当初には7クラス222名であったものが、わすが5年後の昭和51年度には、27クラス1073名となっていました。したがって、旧来の南部小学校校舎で収容することは不可能となりました。そこで、同じ中沢字南久保(みなみくぼ)の地に新校舎が建設されました(現在の校地)。昭和49年6月に第1期工事が完了し、2・3・5・6学年が新校舎へ移動しました。この時には、旧校舎惜別会(せきべつかい)が開催されたそうです。そして、翌50年3月に第2期工事が完了し、残っていた1・4学年も新年度の4月から新校舎へ移動し、旧校舎の明治以来72年に及ぶ歴史に幕が下りたのでした。

 この写真を含めて、多数の昭和46年の写真をパネルにして、現在開催中の企画展「KAMAGAYA 1971 市になったころの鎌ケ谷 」で展示しています。

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ファクス:047-443-4502

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