更新日:2023年1月13日
『鎌ケ谷市史』編さんに関わる調査などにより、近・現代の市域を撮影した多くの写真が確認されています。今回からは、それらの中からピック・アップして掲載していくことにします。
ところで、写真が流布してから間もない明治時代に溯るものは現在のところあまり多くは確認されていません。今回は、今から120年以上前に中沢地区で撮影されたとみられる写真をご紹介したいと思います。
写真 三橋家遠景(明治32年〈1899〉夏)
この写真は、江戸時代に小金(こがね)中野(なかの)・下野(しもの)牧の牧士(もくし)をつとめ、明治時代以降には、鎌ケ谷村長や貴族院議員などにも就任した中沢の名望家(めいぼうか)三橋(みはし)家で、多数の古文書などとともに保存されていた写真の一枚です。この写真自体には年代などは書き記されていませんが、一括されていた他の写真に明治32年夏と記されていたものがあることから、同年のものと比定しました(なお、これらの歴史資料は市教育委員会へ寄贈いただき、現在は郷土資料館で保管しています)。
三橋家は、現在民間の大規模墓地となっている字(あざ)猿根(さるね)の台地下に屋敷地がありました(現存していません)。この写真は、東側の低地から撮影したアングルとなっています。中央には市域では珍しい長屋門(ながやもん)が見えます。なお、もともと長屋門は、江戸時代には上級武士の正式な表門として採用されていたものですが、後には苗字(みょうじ)帯刀(たいとう)を許された有力農民にも建設することが認められました。三橋家は牧士職として、幕府から苗字帯刀が許されていましたから、このような格式(かくしき)の高い門を造っていたのでしょう。
門の背後には、母屋(おもや)と思われる軒(のき)の高い建物の茅葺(かやぶ)き屋根が見えます。そのほか、複数の付属棟(とう)も確認でき、下総地方の典型的な豪農の屋敷構えといえます。西側後背の台地上には、樹種は確認できませんが林があります。その手前をよく見ると、1棟の建物が確認できます。三橋家では時の当主の彌(わたる)が、明治34年に「三橋農場」を正式に開設していますが、農場で使用した標本室や堆肥(たいひ)集積場などの写真も残されていますので、それらの農場施設の一つとみられます。また、屋敷地の前方には耕地整理以前の不整形の水田が広がっていますが、その間を流れる、現在の名称でいう根郷(ねごう)川が確認できます。
19世紀末の市域の景観が知られるのは大変貴重です。なおこの年は、現在の鎌ケ谷市の前身である鎌ケ谷村が誕生してから10年しか経過しておらず、日露(にちろ)戦争が開戦する5年前にあたります。
(注釈) 牧士 江戸時代、幕府が設置した馬の牧場を管理するために地元の有力農民が務めた役柄
名望家 地域社会で名声や人望を兼ね備えた人物や家柄