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第26回 史料整理の現場から(6)馬にまつわる2枚の御札

更新日:2023年8月1日

 令和2年(2020)12月、市内初富の農家の建物調査を行った際、母屋(おもや)の屋根裏から、たくさんの御札(おふだ)が見つかりました。御札は護符(ごふ)の一種で、守札(まもりふだ)などともいい、携行可能で身につけられるものは御守(おまもり)と通称されています。神社や寺などで配布される、紙や木の板などに社寺名や祈願文言(きがんもんごん)(願い事)、神仏の絵などが記されたもので、各種の災厄(さいやく)を除け、幸運をもたらすものとして信じられています。

 見つかった御札は、縄で縛られた大きな紙袋に入れられていたものと、散在している状態のものとがあり、これらを整理した結果、192種類・計330体の御札が確認されました。その中でひときわ目をひいた、馬にまつわる2枚の御札を紹介したいと思います(写真1および2)。
 いずれも現在の市川市国分(こくぶん)に所在する、竺園(ちくおん)寺(臨済宗)が発行したもので、1枚は「馬頭観世音(ばとうかんぜおん)菩薩(ぼさつ)」像と牛馬、もう1枚は松の木に(つな)がれた馬が描かれています。どちらも、馬頭観音(ばとうかんのん)種子(しゅじ)仏像(ぶつぞう)諸尊(しょそん)梵字(ぼんじ)(古代インド文字)で表したもの)を記した朱印が押されています。
 竺園寺は、鎌倉時代後期に造立された十一面(じゅういちめん)観世音菩薩を本尊とし、下総(しもうさ)三十三ヶ所観音霊場の第18番札所(ふだしょ)(巡礼者が参拝のしるしとして札を受けたり納めたりする所)として知られています。なぜ、本尊とは別に、民間信仰では牛馬の守護仏としても(まつ)られる馬頭観音の御札が発行され、また、それはいつ頃のことだったのでしょうか。
 『市川市石造文化財調査報告書』によると、竺園寺の境内に、大正8年(1919)以降に建立された馬頭観音塔3基(うち1基は、日中戦争・太平洋戦争中に出征して死んだ軍馬と思われる供養塔)、また、昭和3年(1928)に陸軍野戦(やせん)重砲兵(じゅうほうへい)第一聯隊(れんたい)によって建立された「軍馬忠魂碑(ちゅうこんひ)」1基を確認することができます。野戦重砲兵第一聯隊は、大正11年に神奈川県横須賀市から移転し、市川町(現市川市)国府台(こうのだい)に駐屯していた旧日本陸軍の部隊です。国府台と隣接する国分の地にあった竺園寺には、明治中期以降、軍馬の埋葬を取り扱っていたという話が伝わっています。


写真2 繋ぎ馬の絵札

 一方、御札が見つかった旧家は、明治初年の初富開墾の際に入植しました。御札の宛先や、御札とともにあった(こよみ)筒粥表(つつがゆひょう)【注釈1】、その他の文書などから、大正初年から昭和30年代頃までのものが、まとまって残されたと思われます。聞き取りによると、かつて馬屋があり、馬を所持していたこともわかります。
 竺園寺と馬とのかかわり、また全国的にも、馬頭観音の造立数が明治半ばから大正年間にかけて最盛期となることとあわせ、2枚の御札の来歴の一端が垣間見えるように思います。
 なお、今回ご紹介した御札は、令和4年度新資料展(令和4年10月22日から令和5年1月28日までの会期で開催)で展示したものです。


注釈1:筒粥は、粥を竹筒ですくって、その量で作物の生育(豊作、凶作)を占う神事で、その結果は一覧表にまとめられ配布されました。農家は作付けの目安などにしたようです。
注釈2:本記事は、『鎌ケ谷市郷土資料館だより』60号に掲載した「史料整理の現場から」9の内容を再編集したものです。

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