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鎌ケ谷市の文化財

更新日:2018年6月25日

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【指定文化財】 【石造物】 【史跡】 【遺跡】

【史跡】1.佐津間城跡(さつまじょうあと) マップを表示します(外部サイト)外部サイトへリンク 新規ウインドウで開きます。
中佐津間1-9
 佐津間城跡は東側に大津川(おおつがわ)をのぞむ標高25メートルの台地上に築かれており、台地下の集落とは約9メートルの()(こう)がある。土塁(どるい)空堀(からぼり)をめぐらせて、周囲を台地から遮断(しゃだん)して(くるわ)を形成する(たん)(かく)構造(こうぞう)城郭(じょうかく)である。守備を主体としたようで、四方に張り出した構造の(やぐら)(だい)と、その櫓台を利用した横矢(よこや)構造(こうぞう)(注釈1)が確認され、郭の入口となる虎口(こぐち)(注釈2)の跡も残っている。また、こうした入口が村落側にあることは、城と村落が一体の関係であったことも推定される。城の大きさは堀の外側で東西50メートル、南北76メートル、土塁の内側で東西21メートル、南北35メートルある。周囲には屋敷(やしき)(うら)北根郷屋(きたねごや)南木戸(みなみきど)などの城に関係する小字名も残っている。
 築造された時期は戦国時代(16世紀中から後半頃まで)と推定されている。
[注記]

注釈1:侵入する敵を側面から攻撃できる構造。
注釈2:敵の侵入に備えた城の入口。「小口(こぐち)」とも書く。
【備考】佐津間城跡は私有地であり、見学できる環境が整っていないため、立ち入りはご遠慮ください。

1.佐津間城跡(クリックすると大きな写真がご覧いただけます)

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【石造物】2.光明真言道標(こうみょうしんごんどうひょう) マップを表示します(外部サイト)外部サイトへリンク 新規ウインドウで開きます。 (詳しい場所はお問い合わせ下さい)
南佐津間10
 北部公民館から宝泉院に向かう路傍に所在する。密教(みっきょう)呪文(じゅもん)である24字の(ぼん)()(古代インドの文字)からなる光明真言を円形に連ね、中央に大日真言(だいにちしんごん)(注釈1)を配している。また、鮮魚道(なまみち)道標(みちしるべ)を兼ねており、正面に「木おろし 成田山道」、右側に「松戸 江戸道」、左側に「粟野 ふなばし道」とある。(ぶん)(きょう)4年(1864)の造立である。
 なお、鮮魚道は我孫子の布佐(ふさ)から松戸を結んだ道である。銚子でげされた魚を江戸まで運ぶルートにあたるためそう呼ばれた。
[注記]
注釈1:すべての功徳(くどく)を得るため(とな)えられるもの。翻訳(ほんやく)せず原語のままで唱えられるため梵字で書かれている。

2.光明真言道標(クリックすると大きな写真がご覧いただけます)

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【石造物】3.渋谷総司贈位顕彰碑(しぶやそうじぞういけんしょうひ) マップを表示します(外部サイト)外部サイトへリンク 新規ウインドウで開きます。
南佐津間9-37 (宝泉院境内)
 渋谷総司は佐津間出身の討幕勤王(とうばくきんのう)志士(しし)である。赤報隊(せきほうたい)(新政府軍先鋒隊(せんぽうたい))に参加し、年貢半減をかかげて東山道(とうざんどう)を進軍し活躍した。しかし「偽官軍(にせかんぐん)」の汚名を着せられ、慶応4年(1868)、隊長であった相楽(さがら)(そう)(ざん)らとともに下諏訪(しもすわ)斬首(ざんしゅ)された。この時、総司は22歳であった。
 なお、「偽官軍」として処刑された者に対する祭祀(さいし)は、遺族も世をはばかり思うようにできなかったが、明治3年には処刑された地に「(さきがけ)(づか)」と名付けられた塚が建立された。大正から昭和初期にかけて赤報隊員たちの名誉回復運動が行われ、数度の請願の結果、昭和3年(1928)復権し、贈位を記念してこの碑が建てられた。

3.渋谷総司贈位顕彰碑(クリックすると大きな写真がご覧いただけます)

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【指定文化財】4.北方前板碑(ぼっけまえいたび) 〔市指文〕 マップを表示します(外部サイト)外部サイトへリンク 新規ウインドウで開きます。
個人蔵、郷土資料館寄託(中央1-8-31)
 板碑は石製の供養塔(くようとう)である。市内の板碑は、埼玉県北西部で採掘された緑泥片岩(りょくでいへんがん)を用いた武蔵(むさし)(がた)板碑(いたび)が多い。北方前板碑は元徳(げんとく)3年(1331)を最古に35基の板碑がある。すべて阿弥陀(あみだ)如来(にょらい)を表わす梵字(ぼんじ)(梵字(キリーク)(キリーク))を刻んだ種子板碑(しゅじいたび)である。当時浄土教系信仰(じょうどきょうけいしんこう)が盛んであったことがわかる。
 昭和53年1月指定

4.北方前板碑(クリックすると大きな写真がご覧いただけます)

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【指定文化財】5.キンモクセイ(きんもくせい) 〔市指文〕 個人宅内
粟野
 キンモクセイは市木として親しまれている。この木は高さ約8メートル、胸高直径(きょうこうちょっけい)約55センチメートルの木である。市内にはキンモクセイが
多く、この木は市内一の大木である。毎年10月初旬ころ、オレンジ色の小さな花を多数つけて豊かな芳香を放つ。
昭和60年9月指定

5.キンモクセイ(クリックすると大きな写真がご覧いただけます)

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【石造物】6.粟野庚申講・粟野庚申塔群(あわのこうしんこう・あわのこうしんとうぐん)〔市指文〕 マップを表示します(外部サイト)外部サイトへリンク 新規ウインドウで開きます。 (詳しい場所はお問い合わせ下さい)
粟野208 (八坂神社(やさかじんじゃ)境内)
 中国の道教(どうきょう)の教えを根源とする庚申信仰は、人の体内にいるとされる「三尸(さんし)の虫」が60日毎の庚申の夜、寝ている間に天に上って天帝にその人の日頃の悪事を報告し、命を縮められるというもので、庚申講(こうしんこう)はそれを防ぐため、庚申の夜は眠らずにいれば、早死にせずに長生きできるという民間信仰である。庚申塔は江戸時代には盛んに建てられたが、明治時代以降は次第に少なくなる。
 粟野は、江戸時代前期から現代まで庚申講が続いている市内で唯一の地区である。現在は夜通し行う講は行われていないが、講による庚申塔の造塔が継承されている。ここに造立された庚申塔は、元禄(げんろく)12年(1699)が最も古い。文化(ぶんか)12年(1815)以降(1845年と1850年をのぞく)は5年ごとに現在まで規則正しく建てられている。
 なお、八坂神社は、明治12年(1879)頃に千葉県が作成した「神社(じんじゃ)明細帳(めいさいちょう)」によると、大永(たいえい)3年(1523)の創立とされている。

粟野庚申講(クリックすると大きな写真がご覧いただけます)

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6.庚申塔群(クリックすると大きな写真がご覧いただけます)

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【石造物】7.粟野の石塔群(あわののせきとうぐん) マップを表示します(外部サイト)外部サイトへリンク 新規ウインドウで開きます。 (詳しい場所はお問い合わせ下さい)

粟野208 (八坂神社境内)他
 元は粟野の市道をはさんで並んでいた石塔のうち、(あざ)西側(にしがわ)にあった出羽三山講碑(でわさんざんこうひ)8基と歯吹如来像(はふきにょらいぞう)待道権現碑(まつどうごんげんひ)聖徳太子講碑(しょうとくたいしこうひ)は、道路の拡幅にともない、八坂神社へ移設された。(あざ)東側(ひがしがわ)には地蔵をはさんで、14基の馬頭観音(ばとうかんのん)(注釈1)が今も見られる。その中の安永(あんえい)8年(1779)のものは市内最古である。
 出羽三山講碑は山形県の月山(がっさん)湯殿山(ゆどのさん)羽黒山(はぐろやま)の三山の登拝(とうはい)を記念したもので、出羽三山講は遠隔地の有名社寺や霊山を集落の代表者が参拝することを目的として結成される代参講(だいさんこう)の一つのである。
 歯吹如来は歯痛を治す信仰があるという。ここの石造物は粟野村の人たちが天保10年(1839)に千田村(せんだむら)(現長南町(ちょうなんまち)千田(せんだ)称念寺(しょうねんじ)の歯吹如来像参拝記念(さんぱいきねん)に建てたものと思われる。「歯吹」は本来、「把富貴(ばふき)」と書かれるという。
 侍道権現を(まつ)待道講(まつどうこう)は子供を産む年齢の女性たちに信仰された安産(あんざん)祈願(きがん)女人講(にょにんこう)である。
 聖徳太子講は大工、左官など主に建築に関る職人たちの結ぶ講で、賃金の協定や職務上の申し合わせなどを行ったものである。
[注記]
注釈1:26「馬頭観音」の項を参照

7.粟野の石塔群(クリックすると大きな写真がご覧いただけます)

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【指定文化財】8.手洗鉢(ちょうずばち)・鈴(すず)・ 「豊作社」額(「ほうさくしゃ」がく)・大絵馬(おおえま) 〔市指文〕 マップを表示します(外部サイト)外部サイトへリンク 新規ウインドウで開きます。

初富221-1 (豊作稲荷神社(ほうさくいなりじんじゃ))
 豊作稲荷神社は、開墾地(かいこんち)初富の農作物の豊穣(ほうじょう)を願って明治6年(1873)に
伏見(ふしみ)稲荷(いなり)勧請(かんじょう)して建立(こんりゅう)された。ここには指定文化財が4点あり、手洗鉢は
初富の開墾事業を担当した湯浅(ゆあさ)氏が奉納したものである。鈴・「豊作社」額もこの年に作られ、奉納された。大絵馬には、当時行われていたと思われる養蚕(ようさん)の様子が描かれている。また湯浅氏の寄進をもとに明治19年には()浅里(あさり)小学校が建設された。なお、「湯浅里」という名称は今も小字名として残っている。
昭和50年1月指定

8.手洗鉢・鈴・ 「豊作社」額・大絵馬(クリックすると大きな写真がご覧いただけます)01

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8.手洗鉢・鈴・ 「豊作社」額・大絵馬(クリックすると大きな写真がご覧いただけます)02

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8.手洗鉢・鈴・ 「豊作社」額・大絵馬(クリックすると大きな写真がご覧いただけます)03

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8.手洗鉢・鈴・ 「豊作社」額・大絵馬(クリックすると大きな写真がご覧いただけます)04

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【石造物】9.孝心講建設の道標 (こうしんこうけんせつのどうひょう) マップを表示します(外部サイト)外部サイトへリンク 新規ウインドウで開きます。 (詳しい場所はお問い合わせ下さい)
軽井沢2082
 軽井沢集会所横の信号付近に所在する。軽井沢字清水の旧鮮魚道(きゅうなまみち)に建てられた道標で、鎌ケ谷村・旧佐津間村・旧初富村などの地名が刻まれていることから、明治22年(1889)以後の建立と推測される。孝心(富士(ふじ))講の人たちが道普請(みちぶしん)の時に建てたものと思われる。
 富士講は富士山を信仰し、登拝するもので、庚申信仰と結びつけて「庚申(こうしん)」の教えを「孝心(こうしん)」に置き換え、江戸時代に盛行した。孝心講はその流れをくむもので、全く無償(むしょう)の土木奉仕活動などを行っていた。

9.孝心講建設の道標(クリックすると大きな写真がご覧いただけます)
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【指定文化財】10.おしゃらく踊り(おしゃらくおどり) 〔市指文〕 マップを表示します(外部サイト)外部サイトへリンク 新規ウインドウで開きます。
軽井沢地区
 軽井沢(かるいざわ)地区に伝えられる。お化粧をし、派手(はで)長襦袢(ながじゅばん)やきれいな着物を着て踊ることから、「おしゃれ」がなまって「おしゃらく」となったといわれている。小道具として手拭(てぬぐい)豆絞(まめしぼ)り)や(おうぎ)を使う。()(かね)()太鼓(たいこ)三味線(しゃみせん)による伴奏で「高砂(たかさご)」「木更津(きさらづ)」などの唄に合わせて、手踊(ておど)りするものである。戦前までは小念仏踊(こねんぶつおど)りともよばれ、念仏講(ねんぶつこう)に由来する関東地方発祥(はっしょう)の代表的な農民(のうみん)芸能(げいのう)の一つで、江戸中期以降に旅芸人などを介して流行し、幕末から明治期にかけて盛行(せいこう)して、結婚式などめでたい席で演じられた。厳しい農作業に明け暮れた生活の中での娯楽(ごらく)のひとつとして、活気に満ち溢れた当時の暮らしの様子を今に伝える貴重な無形(むけい)(みん)俗文化(ぞくぶんか)(ざい)である。
 市内では、かつて木下(きおろし)街道沿いの鎌ケ谷地区にも残っていたが、現在は軽井沢地区のみに残っており、鎌ケ谷市おしゃらく踊り保存会(昭和58年1月結成)により、保存、継承、普及活動が行われており、昭和61年12月に鎌ケ谷市の無形民俗文化財に指定されている。県内で同じ系統の踊りとして松戸の万作(まんさく)(おど)り(県指定)、浦安のお洒落(しゃらく)(おど)り(県指定)などがある。
昭和61年12月指定

10.おしゃらく踊り(クリックすると大きな写真がご覧いただけます)
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【石造物】11.庚申道標(こうしんどうひょう) 11.庚申道標(クリックすると大きな写真がご覧いただけます)(外部サイト)外部サイトへリンク 新規ウインドウで開きます。 (詳しい場所はお問い合わせ下さい)
軽井沢2009
 軽井沢字落山(おとしやま)の給食センター入口の路傍(ろぼう)に所在する。青面金剛(しょうめんこんごう)(注釈1)を表す梵字(ぼんじ)梵字(ウーン)(ウーン))と篆書(てんしょ)(注釈2)で青面金剛が刻まれており、文化14年(1817)に造立された銘がある。
 右側面には「東 志ろ井(白井) 軽井沢」、左側面には「南 かまがや 北 ふじがや」などとあり、鮮魚道(なまみち)の重要な道標(みちしるべ)でもあったことがうかがえる。
[注記]
注釈1:庚申講の本尊。三尸(さんし)の虫を抑える神とされている
注釈2:象形(しょうけい)文字のようすを色濃(いろこ)く残す古書体(こしょたい)のひとつ

1.佐津間城跡(クリックすると大きな写真がご覧いただけます)
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【遺跡】12.東林跡遺跡(ひがしはやしあといせき) マップを表示します(外部サイト)外部サイトへリンク 新規ウインドウで開きます。
初富803他
 東林跡遺跡は初富の第五中学校建設時に調査された旧石器(きゅうせっき)時代(じだい)の遺跡で、市内で発見されている最古の遺跡のひとつである。当時は氷河期(ひょうがき)の終わり頃にあたり、平均気温が今より5、6度低く、鎌ケ谷市周辺の様子は草原や針葉樹(しんようじゅ)の林が広がっていたようある。土器の使用は始まっておらず、発見されるのは石器だけである。旧石器時代遺跡の調査では石器や石器の製作(せいさく)途上(とじょう)に生じる剥片(はくへん)(フレイク)、石くず(チップ)が集中して出土することが多く見られ、このような遺物集中出土地点を「ブロック」などと呼ぶ。
 東林跡遺跡の主体となる「ブロック」は17ヶ所発見されている。旧石器時代は狩りが中心の移動生活で、住まいは簡易テントのようなものであったと考えられており、これらの「ブロック」は当時の人々の行動を推測できる数少ない手がかりとなる。また、これらの「ブロック」は2万5千から2万9千年前までに大噴火したと推定されている、九州の鹿児島(かごしま)(わん)付近にあった姶良(あいら)カルデラを噴出源(ふんしゅつげん)とする姶良Tn火山灰(あいらてぃーえぬかざんばい)より下の地層で確認されていることから、この遺跡はそれ以前に形成されたものと推測される。
 写真は槍の先や物を切るために使われたと考えられるナイフ形石器等である。

12.東林跡遺跡(クリックすると大きな写真がご覧いただけます)
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【指定文化財】13.下総小金中野牧跡(野馬土手)(しもうさこがねなかのまきあと(のまどて)) 〔国指定史跡〕 マップを表示します(外部サイト)外部サイトへリンク 新規ウインドウで開きます。
東初富1-20
 江戸幕府は、軍馬(ぐんば)を確保するため下総地方に小金牧・佐倉(さくら)(まき)を設置した。市域の台地上のほとんどは小金五牧のうちの中野牧に属した。牧では最盛期には1,000頭もの野馬が野放し飼いにされ、通常は(えさ)などが与えられないため、野馬が村に入り畑の作物を食い荒らすこともあった。そのため、村人は野馬が入ってこないように村と牧との境に()()()けの土手を築いた。また野馬を水呑み場(みずのみば)捕込(とっこめ)へ効率的に誘導するための土手(勢子(せこ)土手(どて)という)が築かれた。これらを合わせて野馬土手とよぶ。なお、勢子土手は幕府の手当てにより作られたが、野馬除(のまよけ)土手(どて)築造(ちくぞう)補修(ほしゅう)はすべて村の負担で行われたという。かつて野馬土手は市内各所に所在していたが、開発等に伴い年々減少してきている。そこで、永く保護・保存するためにこの初富小学校校庭横に所在する野馬土手は捕込と共に国史跡に指定された。この野馬土手は勢子土手と呼ばれる種類の野馬土手である。
平成19年2月6日 指定(国史跡)

13.下総小金中野牧跡(野馬土手)(クリックすると大きな写真がご覧いただけます)
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【指定文化財】14.土地紀念講碑(とちきねんこうひ) 〔市指文〕 マップを表示します(外部サイト)外部サイトへリンク 新規ウインドウで開きます。
北初富6-1 (光圓(こうえん)寺境内)
 初富開墾(はつとみかいこん)は牧の廃止後(はいしご)、江戸での仕事を失った人々を救済(きゅうさい)するために明治2年(1869)から始まった。しかし、当初の入植者(にゅうしょくしゃ)には元武士や町人など農作業に慣れていない者が多かった上に、作物の不作が重なったため、多数の離散者(りさんしゃ)が出たり、開墾会社と開墾人との間で土地の取り扱いについて土地騒動(そうどう)が起こるなど困難をきわめたものであった。その後、近隣の村々から移住してきた農家出身者も加わり、苦しい中でも徐々に開墾を成功させていった。その子孫が集まり、当時の生活を忘れないように芋粥(いもがゆ)をすすって祖先(そせん)をしのび、励まし合ったのが土地紀念講である。この碑は開墾50周年を記念して、大正7年(1918)に光圓寺境内に建てられたものである。
昭和50年1月 指定

14.土地紀念講碑(クリックすると大きな写真がご覧いただけます)
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指定文化財】15.下総小金中野牧跡(捕込)(しもうさこがねなかのまきあと(とっこめ)) 〔国指定史跡〕 マップを表示します(外部サイト)外部サイトへリンク 新規ウインドウで開きます。
東中沢2-1
 江戸幕府が軍馬(ぐんば)需要(じゅよう)をまかなうため、直轄(ちょっかつ)して設置した小金牧の1つの中野牧の遺構である。捕込は、野馬を追い込み、捕らえて選別する施設である。捕えられた野馬のうち、三歳馬は乗用に養成されたり、周辺の住民の労働力を(にな)うものとして払い下げられた。それ以外の馬は再び野に放されたが、この年に生まれた当歳(とうさい)()については他の牧の馬と区別するための焼印(やきいん)が尻に押された。焼印は牧ごとに印が決まっており、中野牧は千鳥(ちどり)の印であった。なお、野馬の売払い金は少ないながらも幕府の安定した収入となった。年に1回行われた野馬捕りでここに野馬を追い込むのは、周囲の村々から集められた勢子の仕事であった。野馬捕りの様子は勇壮だったようで、江戸からも多くの見物客が訪れる重要な年中行事であった。中野牧の捕込は小金牧の中で、唯一現存しているもので、元は三つあった区画のうちの一区画がそのまま残っている。
 江戸幕府の軍事力を支えた軍馬生産を知る上で重要であることから、平成19年2月6日に国史跡に指定された。
15.下総小金中野牧跡(捕込)(クリックすると大きな写真がご覧いただけます)
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【指定文化財】16.高札「慶応四年太政官布告」 (こうさつ「けいおうよんねん だいじょうかん ふこく」 ) 〔市指文〕 マップを表示します(外部サイト)外部サイトへリンク 新規ウインドウで開きます。
個人蔵 及び 中央1-8-31 (郷土資料館)
 慶応4年(1868)、明治政府は「五箇条(ごかじょう)御誓文(ごせいもん)」を発布した。一方庶民に対して「五蒡(ごぼう)掲示(けいじ)」を出し、江戸時代と同様に、一揆(いっき)やキリスト教を禁止した。この高札は、道野辺の妙蓮寺わきの路傍に立てられたといわれている。
 写真の高札は横103センチメートル、縦(最大)51.7センチメートル、厚さ3.5センチメートルの杉板製である。
昭和52年7月指定

16.高札「慶応四年太政官布告」 (クリックすると大きな写真がご覧いただけます)
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【遺跡】17.中沢貝塚(なかざわかいづか) マップを表示します(外部サイト)外部サイトへリンク 新規ウインドウで開きます。
東中沢2-10 他
 貝柄山(かいがらやま)公園(こうえん)西側の台地上にある直径約130メートルの馬蹄型(ばていけい)貝塚(かいづか)で、市内では最も大きく、県内でも規模・内容とも有数の貝塚である。昭和30年代後半から20次以上の調査を行った結果、多数の住居跡が発見されている。また、出土品として大量の土器・石器の他、土偶(どぐう)をはじめとする特殊(とくしゅ)な遺物も数多く出土している。土偶などは祭祀に使われていたと考えられており、精神生活も豊かで多様であったことがうかがえる。貝層からは動物の骨なども多数発見されているため、海産資源の活用とともに狩りも盛んに行われていたことがわかる。石器では弓矢の先に付けられた石鏃(せきぞく)のほか、打製(だせい)(せき)()磨製(ませい)(せき)()(いし)(ざら)(すり)(いし)等も数多く出土しており、土の掘り起こしや木の伐採(打製石斧・磨製石斧)や、木の実などの採集(石皿・磨石による木の実の皮むき、磨りつぶし)もしていたことがうかがえる。なお、この遺跡が形成されたのは、発見された遺物などから縄文時代後期(約4千から3千年前まで)を中心に、中期から晩期(約5千から2千3百年前まで)に及ぶと推測される。
 写真は中沢貝塚から出土した土偶である。土偶は豊穣(ほうじょう)や病気の回復を祈るまじないに使われたと考えられ、(こわ)れた状態で出土するものがほとんどである。下段右側の人面(じんめん)土器(どき)は土器の内側に人の顔が表現された珍しいものである。

17.中沢貝塚(クリックすると大きな写真がご覧いただけます)
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【指定文化財】18.下総牧開墾局知事(しもふさまきかいこんきょくちじ)北島秀朝等(きたじまひでともら) 旅宿看板(りょしゅくかんばん) 〔市指文〕 マップを表示します(外部サイト)外部サイトへリンク 新規ウインドウで開きます。
中央1-8-31 (郷土資料館)
 下総(しもうさ)(まき)開墾(かいこん)事業(じぎょう)が始まる直前の明治2年(1869)に東京府(とうきょうふ)開墾局(かいこんきょく)知事(ちじ)北島(きたじま)(ひで)(とも)開墾局(かいこんきょく)の役人たちが、当時粟野村(あわのむら)の名主を務めていた渋谷家に宿泊し、実際に開墾予定地を視察したことを示すものである。最初の開墾地となるこの地が豊かな土地になるようにと願いを込め、この地で「初富(はつとみ)」と命名・宣言したされる史実を具体的に裏付けるとともに、開墾開始前後の資料は皆無に近いため、極めて貴重な資料である。
 看板には北島の名前とともに同行した開墾局の役人の名前などが墨書きされている。
写真左「花井静一郎旅宿」(表)・「開墾局御用宿」(裏:右端)、写真中央「北島五位旅宿」(表裏とも)、写真右「関口一郎旅宿」(表・裏記載なし)
 北島の看板は杉材、他2点は桧材、大きさは3点とも概ね63センチメートル、幅14センチメートル、厚さ1センチメートルである。なお、北島は当時の位階で書かれている。
平成10年11月指定

18.下総牧開墾局知事北島秀朝等旅宿看板 (クリックすると大きな写真がご覧いただけます)
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【遺跡】19.大堀込遺跡(おおほりごめいせき) マップを表示します(外部サイト)外部サイトへリンク 新規ウインドウで開きます。 (詳しい場所はお問い合わせ下さい)
中沢1123他
 第四中学校を囲むように広がる縄文、古墳、奈良・平安時代に及ぶ複合遺跡である。
各時代にわたり、住居跡などの遺構や遺物が発見されている。
 写真は縄文時代の深鉢形土器(ふかばちがたどき)漁撈(ぎょろう)に使われたと考えられる軽石製(かるいしせい)浮子(うき)弓矢(ゆみや)の先に付けられた石鏃(せきぞく)祭祀(さいし)に用いられたと思われる土偶(どぐう)、奈良・平安時代の土師器(はじき)に墨で「七」と書かれた墨書(ぼくしょ)土器(どき)である。

19.大堀込遺跡(クリックすると大きな写真がご覧いただけます)
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【遺跡】20.根郷貝塚(ねごうかいづか) マップを表示します(外部サイト)外部サイトへリンク 新規ウインドウで開きます。 (詳しい場所はお問い合わせ下さい)
中沢471他
 万福寺(まんぷくじ)の北側に位置する縄文、古墳、奈良・平安、室町時代に及ぶ複合遺跡である。各時代にわたり住居跡などの遺構や遺物が発見されている。特に縄文時代の住居跡には貝塚が残され、埋葬された状態で人骨が発見されている。
 写真は埋葬(まいそう)人骨(じんこつ)の出土状況、埋葬人骨とともに出土した、バンドウイルカの下顎骨(かがくこつ)作られた腰飾(こしかざ)り、イノシシの(きば)で作られた腕輪(うでわ)である。

20.根郷遺跡(クリックすると大きな写真がご覧いただけます)
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【遺跡】21.万福寺境内遺跡(まんぷくじけいだいいせき) マップを表示します(外部サイト)外部サイトへリンク 新規ウインドウで開きます。
中沢484 (万福寺境内)
 152基以上の板碑(いたび)火葬人骨(かそうじんこつ)骨壷(こつつぼ)渡来銭(とらいせん)などが出土した県内でも貴重な
中世遺跡である。弘安(こうあん)7年(1284)の板碑が最古。梵字(ぼんじ)を刻んだ種子板碑(しゅじいたび)と「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」を刻んだ題目板碑(だいもくいたび) とがあり、浄土教系(じょうどきょうけい)(種子板碑)の信仰から日蓮宗(にちれんしゅう)(題目板碑)への改宗(かいしゅう)があったことがわかる。

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【指定文化財】22.八幡・春日神社の森(はちまん・かすがじんじゃのもり) 〔市指文〕 マップを表示します(外部サイト)外部サイトへリンク 新規ウインドウで開きます。 (詳しい場所はお問い合わせ下さい)
中沢907
 
もともとスギとクロマツの人工林から始まり、約200から300年を経過しているものと思われる。胸高直径(きょうこうちょっけい)3メートル以上の巨木は、スギが2本、ムクノキが6本ある。
また、暖帯林(だんたいりん)特有のヤブツバキが亜高木(あこうぼく)として森をおおい、12月初旬ころから花が咲き始める。
平成4年8月指定

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【指定文化財】23.牧士三橋家の墓地(もくし みはしけのぼち) 〔市指文〕 マップを表示します(外部サイト)外部サイトへリンク 新規ウインドウで開きます。 (詳しい場所はお問い合わせ下さい)
中沢646
 三橋家は、江戸時代に小金中野牧の牧士(もくし)役をつとめた家柄である。牧士は野馬の管理を行ない、野馬捕(のまど)りや将軍の鹿狩(ししが)りの際には、勢子人足(せこにんそく)たちを指揮した。また、苗字帯刀(みょうじたいとう)の他、乗馬や鉄砲の所持も許されていた。この墓地には享保8年(1723)に亡くなった五郎兵衛(ごろべえ)から、昭和の初めに貴族院議員として活躍した三橋(わたる)まで、10代にわたる墓石がある。
昭和52年7月指定

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【石造物】24.題目庚申道標(だいもくこうしんどうひょう) マップを表示します(外部サイト)外部サイトへリンク 新規ウインドウで開きます。 (詳しい場所はお問い合わせ下さい)
中沢197
 中沢字新橋の路傍にある。享和(きょうわ)3年(1803)に建てられ、髭文字(ひげもじ)(注釈1)で題目「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」が刻まれている。庚申塔と道標も兼ね、 「右 か祢が崎(金ヶ作) 南 船ばし(橋)道 左 行とく(徳)」と刻まれているが、現在はもと建てられていた位置とずれている。
[注記]
注釈1:文字の端を髭のようにのばして書いた文字

24.題目庚申道標(クリックすると大きな写真がご覧いただけます)
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【指定文化財】25.妙蓮寺板碑及び五輪塔(みょうれんじいたびおよびごりんとう) 〔市指文〕 
妙蓮寺(常時公開はしていません)
 妙蓮寺は中山法華経寺(なかやまほけきょうじ)末寺(まつじ)の古い寺である。道野辺は、日蓮(にちれん)の母妙蓮(みょうれん) の生まれたところとの伝承もある。板碑には永享(えいきょう)4年(1432)の銘があり、「右為妙蓮逆修(注釈1)也」と刻まれている。五輪塔(ごりんとう)は石が5段に重ねられたもので、年代は不明。高さ45センチメートル。
昭和52年7月指定
[注記]
注釈1:逆修:自分の死後の幸福を願い、自ら(板碑を)造立すること。

25.妙蓮寺板碑及び五輪塔(クリックすると大きな写真がご覧いただけます)
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【石造物】26.馬頭観音(ばとうかんのん) マップを表示します(外部サイト)外部サイトへリンク 新規ウインドウで開きます。 (詳しい場所はお問い合わせ下さい)
道野辺35 他
 馬は、動力機関が発達する近代以前には運輸や大きな労働力として貴重な存在であり、大切に扱われていた。そこで馬を飼育する人々の間で馬の無病(むびょう)息災(そくさい)供養(くよう)のために馬頭観音に祈願する講ができたりして、馬頭観音を造立することが広まった。市内では粟野の八坂神社に安永(あんえい)8年(1779)銘のものが、現在確認されている中では最も古い。明治以降は次第に特定の日付が刻まれているもが多くなり、馬の墓標(ぼひょう)として造立されるようになったようである。
 道野辺字下西山の墓地には、3基現存している。これらのうち、明治43年(1910)造立のものは、日露(にちろ)戦争(せんそう)徴発(ちょうはつ)されて死んだ馬の供養のための馬頭観音である。

26.馬頭観音(クリックすると大きな写真がご覧いただけます)
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【指定文化財】27.根頭神社の森(ねずじんじゃのもり) 〔市指文〕 マップを表示します(外部サイト)外部サイトへリンク 新規ウインドウで開きます。 (詳しい場所はお問い合わせ下さい)
道野辺49
 市民の森の主要部分を占めている森で、スギ・ヒノキ・アカガシ・コブシなどの本殿林(ほんでんりん)と、それを囲むスギ・ヒノキの人工林で構成されている。また、胸高直径(きょうこうちょっけい)3.48メートルのスダジイの巨木もある。スギの樹齢は100±10年と推定される。
 また、草本類の種類も多く、ウラシマソウ、チゴユリ、ミヤマナルコユリ、ヤマユリ、ヒトリシズカなど多くのものが確認されている。
平成4年8月指定

27.根頭神社の森(クリックすると大きな写真がご覧いただけます)
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【指定文化財】28.魚文の句碑(ぎょぶんのくひ) 〔市指文〕 マップを表示します(外部サイト)外部サイトへリンク 新規ウインドウで開きます。
東鎌ケ谷1-7
 「ひとつ()へ (ひと)()()む 枯野(かれの)かな 魚文(ぎょぶん)」(銘文)松尾芭蕉(まつおばしょう)の流れをくむ俳人(はいじん)三級亭魚文(さんきゅうていぎょぶん)が、旅の途中で鎌ケ谷宿(かまがやしゅく)を通った時に()んだ句と思われる。「明和(めいわ)元年(1764)、武陽産高橋氏(ぶようさんたかはしし)建立」とある。木下街道(きおろしかいどう)の道標を兼ね、「右 木をろし道」「左 中木戸道」と刻まれている。
 木下街道は古くは木下(きおろし)河岸(かし)行徳(ぎょうとく)河岸(がし)を結ぶ輸送路として、その後も江戸から鹿島方面への参詣や銚子方面へ向かう人々で賑わい、鎌ケ谷宿にも多くの文人(ぶんじん)墨客(ぼっかく)が往来していた。古くは松尾芭蕉(まつおばしょう)が弟子を伴い「かしま紀行」を残している(貞享(じょうきょう)4年(1678))。また、渡辺崋山(わたなべかざん)文政(ぶんせい)8年(1825)に鎌ケ谷宿付近で「四州真景図(ししゅうしんけいず)」の「釜原(かまはら)」を描いている。鎌ケ谷市役所1階ロビーにはこの絵を模した壁画がある。
昭和47年3月指定

28.魚文の句碑(クリックすると大きな写真がご覧いただけます)
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【指定文化財】29.官軍兵士の墓(かんぐんへいしのはか) 〔市指文〕 29.官軍兵士の墓(クリックすると大きな写真がご覧いただけます)(外部サイト)外部サイトへリンク 新規ウインドウで開きます。
鎌ケ谷1-5 (大仏墓地内)
 慶応4年(1868)、江戸幕府の滅亡に反発した旧幕府軍の一部と鎮圧に向かった新政府軍とが、市川・船橋周辺で激しい戦いをした。その折、鎌ケ谷大新田(おおしんでん)付近で、新政府軍側の佐土原藩(さどわらはん)(現宮崎県宮崎市佐土原町)の士分(しぶん)1名(俗名(ぞくみょう)蓑毛次右衛門(みのもじうえもん))と兵糧方(ひょうろうかた)1名(俗名:巳之助(みのすけ)、兵糧を輸送した農民と思われる)が戦死した。ここにはその当時、佐土原藩の(とむら)い料により建てられた墓石と明治19年(1886)に新政府軍側の戦死者に対して千葉県の官費(かんぴ)で建てられた墓石がある。
 この新政府軍と旧幕府軍の戦争による死傷者の数はわかっていない。新政府側の兵士の墓はこのようの所々で確認できるものの、旧幕府軍の戦死者は、当時、墓石に名前を刻むことすら難しかったため、ほとんど確認できない状態である。しかし、下総地方には幕府直轄の牧場があったなど旧幕府軍に与する傾向があり、一部で脱走様(だっそうさま)と呼ばれる旧幕府軍兵士の墓と思われるものも存在する。
昭和47年3月指定

1.佐津間城跡(クリックすると大きな写真がご覧いただけます)
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【指定文化財】30.鎌ケ谷大仏(かまがやだいぶつ) 〔市指文〕 マップを表示します(外部リンク)外部サイトへリンク 新規ウインドウで開きます。
鎌ケ谷1-5(大仏墓地内)
 安永5年(1776)、鎌ケ谷宿の大国屋(だいこくや)(福田)文右衛門(ぶんうえもん)が、祖先の供養のために、江戸神田の鋳物師(いものし)鋳造(ちゅうぞう)させたもの。高さ1.8メートルの釈迦(しゃか)如来座像(にょらいざぞう)ある。開眼供養(かいがんくよう)には僧侶(そうりょ)50人あまりを(しょう)じ、江戸の高級料理屋八百(やお)(ぜん)で300人前の料理を用意し、当時「つぼに白金(しろがね)、お(ひら)にゃ黄金(こがね)、皿にゃ小判(こばん)でとどめ刺す」と(うた)(はや)されたと豪勢な様子が伝えられ、鎌ケ谷(かまがや)宿(しゅく)盛時(せいじ)の有り様がうかがえる文化財である。
昭和47年3月指定

30.鎌ケ谷大仏(クリックすると大きな写真がご覧いただけます)
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【指定文化財】31.百庚申(ひゃくこうしん) 〔市指文〕 マップを表示します(外部サイト)外部サイトへリンク 新規ウインドウで開きます。
鎌ケ谷1-6 (八幡神社境内)
 八幡神社境内に、天保12(1841)から13年までにかけて建てられた。青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)が10基あり、その間に文字塔(「庚申塔」)が9基ずつの90基と合わせて100基ある。石塔(石像)を同じ場所に多く造立して、多くの功徳(くどく)を得るため、100基という多数が建てられたものである。江戸時代後半に下総で流行した信仰形態である。
昭和63年12月指定

31.百庚申(クリックすると大きな写真がご覧いただけます)
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【指定文化財】32.庚申道標(こうしんどうひょう) 〔市指文〕 マップを表示します(外部サイト)外部サイトへリンク 新規ウインドウで開きます。
鎌ケ谷1-6 (八幡神社境内)
 元は、大仏十字路付近にあった庚申塚(こうしんづか)上に所在していたもの。中央の1基は寛政(かんせい)7年(1795)に造立されたもので、側面には 「東 さくら(佐倉)道」 「西 こがね(小金)道」と刻まれており、道標を兼ねていた。
昭和63年12月指定

32.庚申道標(クリックすると大きな写真がご覧いただけます)
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【指定文化財】33.駒形大明神(こまがただいみょうじん) 〔市指文〕 マップを表示します(外部サイト)外部サイトへリンク 新規ウインドウで開きます。 (詳しい場所はお問い合わせ下さい)

鎌ケ谷3-3
 牧士清田家(もくしきよたけ)の三代の勝定(かつさだ)は馬術にすぐれ、将軍の御前で見事に悍馬(かんば)を乗りこなしたという。この馬を賜り、帰村する途中、現在の市川市北方付近に至ると、にわかに馬がたけり狂ったので、切り殺してしまった。後に、その冥福を祈るために作った小祠(しょうし)が、この駒形大明神と伝えられている。
昭和48年10月指定

33.駒形大明神(クリックすると大きな写真がご覧いただけます)
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【指定文化財】34.牧士清田家の墓地(もくしきよたけのぼち) 〔市指文〕 マップを表示します(外部サイト)外部サイトへリンク 新規ウインドウで開きます。 (詳しい場所はお問い合わせ下さい)
鎌ケ谷3-3
 清田家は江戸幕府の命をうけ、小金(こがね)下野牧(しものまき)牧士(もくし)役を13代にわたって世襲した。牧士は野馬の管理を行ない、野馬捕(のまど)りや将軍の鹿狩(しかか)りの際には、勢子人足(せこにんそく)たちを指揮した。また、苗字帯刀(みょうじたいとう)の他、乗馬や鉄砲の所持も許されていた。
昭和48年10月指定

34.牧士清田家の墓地(クリックすると大きな写真がご覧いただけます)
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【史跡】35.鉄道連隊建設の橋脚(てつどうれんたいけんせつのきょうきゃく) マップを表示します(外部サイト)外部サイトへリンク 新規ウインドウで開きます。
東道野辺6-9
 アカシヤ児童遊園内に所在する。明治40年(1907)に津田沼に置かれた陸軍(りくぐん)鉄道(てつどう)第2(だいに)連隊(れんたい)は、昭和初年に訓練用として、津田沼・松戸間に鉄道を敷設(ふせつ)した。これはその線路の橋脚である。路線は第二次世界大戦後、現在の新京成電鉄に払い下げられたが、訓練用に敷設された路線のため、大きく曲がりくねっていたので、手直しがされた際に路線とならず、橋脚だけが残されたものである。

35.鉄道連隊建設の橋脚(クリックすると大きな写真がご覧いただけます)
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【指定文化財】36.道標地蔵(どうひょうじぞう) 〔市指文〕 マップを表示します(外部サイト)外部サイトへリンク 新規ウインドウで開きます。
南鎌ケ谷3-6-43
 行徳・鎌ケ谷・木下(きおろし)を結ぶ「木下街道(きおろしかいどう)」は江戸時代の重要な交通路であった。この道標地蔵は、木下街道から神保(じんぼ)(現船橋市)への分岐点に建てられたものと考えられるが、現在は(せい)長庵(ちょうあん)内に所在する。前面には「いんざいみち かしま道なり」、左側面に「かまがい道 施主かねこ」、右側面には「じんぼう道 施主金子」と刻まれている。正徳(しょうとく)5年(1715)に造立された銘があり、市内最古の道標である。
昭和60年9月指定

36.道標地蔵(クリックすると大きな写真がご覧いただけます)
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【指定文化財】37.大仏板碑(だいぶついたび) 〔市指文〕 マップを表示します(外部サイト)外部サイトへリンク 新規ウインドウで開きます。
中央1-8-31
 大仏墓地周辺で発見された。3基の板碑はいずれも(ぼん)()(キリーク)が刻まれている種子(しゅし)板碑(いたび)である。文明(ぶんめい)17年(1485)、明応(めいおう)
4年(1495)などの(めい)が確認される。市内で発見されている種子板碑としては最も新しい。
昭和53年1月指定

36.道標地蔵(クリックすると大きな写真がご覧いただけます)
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【指定文化財】 錦絵「貴婦人の図」(にしきえ「きふじんのず」) 〔市指文〕 個人蔵
 明治30年に作成されたものであるが、江戸時代の錦絵の伝統を残すものである。
昭和48年10月指定

錦絵「貴婦の図」(クリックすると大きな写真がご覧いただけます)
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【指定文化財】 版画集「小供遊戯風俗」(はんがしゅう「こどもゆうぎふうぞく」) 〔市指文〕 個人蔵

 浮世絵の挿絵画家宮川春汀(みやがわしゅんてい)の作品。明治29年に作成された。江戸時代から明治時代までの女子遊びを収集したもので、当時の風俗を知る貴重な資料である。
昭和48年10月指定

版画集「小供風俗」(クリックすると大きな写真がご覧いただけます)
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【指定文化財】 「庭訓往来」三月之部(「ていきんおうらい」さんがつのぶ)〔市指文〕 個人蔵
 江戸時代から所有者家に伝来するものである。「庭訓往来」は月1回の往復書簡(おうふくしょかん)の形式をとった習字や読本の教科書で、年間を
通して多くの単語や文例、社会常識を学べるようになっている。江戸時代の寺子屋でも用いられた。
昭和48年10月指定

「庭訓往来」三月之部(クリックすると大きな写真がご覧いただけます)
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【指定文化財】 渋谷総司の書簡(しぶやそうじのしょかん) 〔市指文〕 個人蔵
 この書簡は総司が兄に宛てて出したもので、文中では慶応2(1866)年5月の江戸の打ちこわしの様子を伝えており、当時の混乱した江戸市中のありさまを知る上でも貴重な史料である。総司はこの後、慶応3年に結成された赤報隊(せきほうたい)に参加し、討幕(とうばく)運動(うんどう)に身を投じてゆくことになる。
昭和52年7月指定

渋谷総司の書簡(クリックすると大きな写真がご覧いただけます)
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国指定史跡
 名称 
1

下総小金中野牧跡(捕込)

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下総小金中野牧跡(野馬土手)

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市指定文化財
指定No.名称 
1

鎌ケ谷大仏

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2

官軍兵士の墓

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3

魚文の句碑

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4

牧士清田家の墓地

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5

駒形大明神

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6

錦絵「貴婦人の図」

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7

版画集「小供遊戯風俗」

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8

「庭訓往来」三月之部

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9

土地紀念講碑

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10

豊作稲荷神社「手洗鉢」

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11

豊作稲荷神社「養蚕大絵馬」

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12

豊作稲荷神社「鈴」

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13

豊作稲荷神社「豊作社」額

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14

渋谷総司の書簡

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15

牧士三橋家の墓地

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16

高札「慶応四年太政官布告」

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17

妙蓮寺板碑及び五輪塔

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18

北方前板碑

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19

大仏板碑

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20

キンモクセイ

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21

道標地蔵

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22

おしゃらく踊り

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23

庚申道標

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24

百庚申

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25

八幡・春日神社の森

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26

根頭神社の森

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27

下総牧開墾局知事北島秀朝等旅宿看板

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28

粟野庚申講

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30

粟野庚申塔群

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